「この経済は人を殺します」

~2015年度の連続セミナーを終えて~

ボネット ビセンテ SJ
イエズス会社会司牧センタースタッフ

2015年度の連続セミナーの様子

1965年12月7日に、第二バチカン公会議の最後の公文書、『現代世界憲章』は発表されました。そして翌日、3年にわたった同公会議は閉幕しました。その50周年に当たる、2015年度の連続セミナー〈社会問題とカトリック教会の考え〉のテーマは、「第二バチカン公会議と《今》」とし、『現代世界憲章』を中心にして、私たちの《今》を考えるようにしました。

カトリック教会が公会議の文書をもって、カトリック信徒と他のキリスト者にだけではなく、全世界の人々に向かって初めて話しかけたのは、50年前でした。その公文書が『現代世界憲章』です。

『現代世界憲章』

当時までのカトリック教会(教皇)は、長年、絶対的権威を主張していて、それによっていろいろと世界(社会)と対立していました。それは、政治政策にかかわることであれば、様々な国の政治権威者と。宗教にかかわることであれば、他の諸宗教の代表者と。そして文化にかかわる事柄(思想、出版、教育、良心などの自由)であれば、文化の革命と呼ばれる社会的な動きと対立しました。

そのような、世界(社会)に対する拒否的ともいえる態度は、『現代世界憲章』で一変しました。それは、権威をもって自らの考えを押し付けるのではなく、謙遜になって人類に奉仕したい、自分がもっている福音の光を提供して、人類がぶつかっている様々な問題、不安と悩み、人生への問いかけに対する答えを見出すために役に立ちたいという態度への変化でした(『現代世界憲章』、序文と前置き)。

そのために、まず当時の世界の状況を考察して、社会・心理・道徳・宗教的な変化、世界における不均衡、そして人類の最も深い問いかけや、願いと希望を取り上げました(同、前置き)。

18~19世紀の教皇たちの発言と明確に対比して、第二バチカン公会議は、人間の尊厳、その知性や良心と自由の尊さを主張しました。また、共同体としての人類について、万人の本質的平等、共通善と社会正義、そしてそれらの実現のために、人間どうしの連帯、一人ひとりが自らの責任を果たし、公共の生活に参加すべきことに言及しました(同、第1部)。

教会が人類社会と一人ひとりの人間に奉仕したいと主張する公会議は、緊急と思われた課題を取り上げ、それぞれについて、当時の問題点を指摘あるいは告発して、自らの考えを提供しました。

それらの課題というのは、結婚と家庭、文化の発展とそれに関するキリスト者の緊急の責任、経済・社会生活と労働にかかわる様々な問題、政治共同体の生活と政治共同体と教会とのかかわり、そして平和の推進や戦争の回避と諸民族共同体などです(同、第2部)。

《今》を考えて

信徒そして修道者として、当時のカトリック教会を体験していた自分にとって、第二バチカン公会議は画期的な出来事であり、それによって教会が本来にあるべき姿に近づく改革をもたらすものでした。しかし、地域によって、あるいは教会内のあるグループにとっては、そうではなかったのです。信徒、修道者、司教たちなどの間には、そのような改革を受け入れず、抵抗した者もいました。それに加えて、世界の社会や文化の急速な変化に対して、恐れを感じたり、応答できなくなったり(しなかったり)ということもありました。

結局、教会が50年前に宣言した、世界と対立するのではなく、逆に世界に開かれ、人類に奉仕する教会でありたいということは、ある程度しか実現できませんでした。また、政治や経済にかかわる問題について、及び家庭や文化の役割について勧めたことは、ほとんど実行されませんでした。そのことは、現在の結婚と家族の危機と思われる実情、拡大し続けている貧富の格差、戦争や紛争とテロリズムと呼ばれる行為、難民や移民の増加などによって、明らかになっていると認めざるを得ません。

現教皇フランシスコは、『現代世界憲章』から受けた洞察を、いろいろな方法で展開させています。結婚と家族にかかわる諸問題に、教会全体で立ち向かうために、2014年10月5日~15日に、臨時のシノドス(世界代表司教会議)を開きました。そして、その会議の結果をさらに深めるため、2015年10月4日~25日に、「教会と現代世界における家族の使命とミッション」というテーマで、通常のシノドスを召集しました。最後に、司教たちの3分の2以上がすべての提案に賛成して、会議の最終文書が発表されました。なお、この会議の決定事項が効力をもつためには、教皇の承認が必要で、それがつい先日(2016年4月8日)、使徒的勧告『Amoris Laetitia(愛の喜び)』として発表されました。

教皇はまた、多くのメッセージ、特に『福音の喜び』という使徒的勧告の公文書において、今まで実行されていない、経済、政治、戦争と平和などについての『現代世界憲章』の勧めを、さらに深く、総合的に取り扱って、《今》を次のように分析しています。

機会の不均等は、攻撃、戦争、暴力の温床です。社会や人々の間での排除と格差とが取り除かれない限り、暴力を根絶することは不可能でしょう(『福音の喜び』、59番)。人々の排除と格差が遅かれ早かれ生み出す暴力行為は、軍備拡張競争や鎮圧などによって解決され得ません(同、60番)。

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実際に、少数の人の利益が飛躍的に増大する一方、大多数の人は、この幸福な少数派の得る裕福さからますます遠ざけられています。こうした不均衡は、市場の絶対的な自律性と、金融投機を擁護するイデオロギーに由来します(同、56番)。排他的であり、格差をつくる経済を拒否しなければなりません。この経済は人を殺します(同、53番)。市場と金融投機の絶対的自律性を放棄し、格差を生む構造的原因に敢然と立ち向かうことで、貧しい人々の問題が抜本的に解決されない限りは、世界が抱える問題は何一つ決定的には解決されません。格差は社会悪の根源なのです(同、202番)。

それゆえ教皇は、金融制度の改革を要求して、決意と先見性をもってこの課題に向き合うことを政治指導者に勧めています(同、58番)。

教皇はさらに、信仰と貧しい人々との間にある、切っても切れない密接なきずな、キリスト者が貧しい人々のための神の道具であることなど、福音と経済との関係について力強く述べています(同、48、177、187、194、199番)。

今年の2月17日は、セミナーの最終回の日でした。毎回と同様、参加者からのコメントあるいは質問などを書いていただきました。そのなかに、次のようなものがありました:「経済と信仰の関係が、非常に深いというお話はとても興味をもちました。」 また、「経済格差と福音について、あまり関連付けて考えたことがなかったので、教皇様がここまで具体的に言及されているということに驚き、考えさせられました。」

今年度の連続セミナーでは、教皇が昨年発表した、地球環境についての回勅『ラウダト・シ』を中心に、地球の現状とそのケアを熟考したいと思います。環境の問題は、単なるごみの分別、資源の再生利用などだけではなく、教皇が述べているように、人類にとって死活の問題であり、私たちは今こそ自分たちの責任を考え、行動しなければなりません。

2016年イエズス会日本管区の社会使徒職

光延 一郎 SJ
イエズス会社会司牧センター所長

2016年2月15日に、年2回の社会使徒職拡大委員会が開催され、日本管区社会使徒職の課題について話し合いました。

日本管区のミッションにおける社会使徒職の重要性は、昨年5月の管区会議や、今年1月16日に管区長から発表された「イエズス会日本管区の将来の優先課題」でも確認されています。すなわち管区会議においては「主が全イエズス会に、今日求めておられる三つの最も重要な呼びかけ」への回答の一つとして、次の諸点があげられました:「②傷つけられた世界への癒しの奉仕(正義・平和・環境)」

  • 過度の市場化によって引き起こされている格差や排除、暴力、貧困問題に関わる。そのために多くの人々と協働し、貧しくされた人々と苦しみを共にし、声をあげ、連帯行動を促進する。さらに、神学的省察と社会分析、政治的参加を含む行動を推進する。
  • 宗教や文化の名を用いた暴力の連鎖を断ち切り、多様性を認めあう共生社会の実現を目指す。そのために諸宗教の人々、宗教を持たない人々との対話を促進する。
  • 地球規模の環境問題を研究し、その問題点を社会に発信する。情報発信や問題解決のための運動に関して、さまざまの人々と協働していく。
  • 原発や核兵器による命への脅威、軍産学複合体への危惧に関して声をあげ、連帯行動を促進する。
  • 教育と研究のミッションを通して、現代世界における正義・平和・環境に関する諸問題の倫理的考察を行ない、対処することのできる次世代を養成する。

また2016年1月16日に梶山管区長から発表された「イエズス会日本管区の将来の優先課題」でも、その一つとして次のように言われます。「3.日本が置かれている世界、特にアジアの政治・経済的観点から、正義の促進と環境分野に奉仕するため、社会使徒職が不可欠である。そのため、社会使徒職を優先課題とする。具体的には、教皇と司教団、そしてイエズス会の方針に基づき、世界的ネットワークを活かして、環境や原発問題、歴史認識や平和形成、貧困問題などに関して、協働者をはじめ、多くの人々と共に声を挙げながら、研究や啓発活動に従事して、世界や日本のフロンティアの必要に応える。なお、この分野に関してアジア太平洋地域において、さまざまのレベルの連携を促進する。たとえば、東ティモールにおける本会の活動を積極的に支援したり、日韓両管区の協働を促進したりする」。

過去10年来、日本管区社会使徒職委員会としての優先課題は、次の5点でした。①Migration(移民問題)、②Marginalization(貧しい人々の周辺化・排除問題)、③心の悩み(社会からの圧迫によるうつやひきこもり問題)、④環境問題、⑤平和形成。これらは、今もあいかわらず日本社会にうずく痛みであり、イエズス会が今後も取り組むべき課題でしょう。

第32回総会(1975年)は、「第4教令」で、現代のイエズス会の使命を「信仰への奉仕と正義の促進」であると規定しました。それゆえイエズス会員と協働者は本来皆、福音の社会的次元を意識し、両者の統合に根差して活動する者たちです。そこで社会センターや社会使徒職委員会メンバーが果たす役割は、個人の社会的次元にかかわる活動を助け、それをつなぎ合わせることでしょう。東京・大阪・下関の各センターは、それぞれ何らかの現場を持ちつつ、世界の教会・イエズス会との連絡をとり、管区の社会的次元を深める役割を負っています。こうした会員各自のミッションの社会使徒職的性格と管区「社会使徒職委員会」の役割の関係の認識は、しかしいまだ管区会員間に浸透せず、「社会使徒職は特別な会員がやるもの」と思われているようです。日本の教会全体としても、正義と平和の問題について、司教様方は大いに努力してくださっていますが、一般の信徒はあいかわらず(宗教と社会の)「二元論」にとどまっているようです。この壁を越えていくことが大きな課題です。

ところで、社会使徒職委員会メンバー個々の活動は、多岐にわたっています。東京センターでは、移民デスク(Migrant Desk)足立インターナショナル・アカデミー(AIA)が、日本で暮らす外国人の生活を助けています。また「社会教説セミナー」も長く続いており、昨年は一年かけて『現代世界憲章』をさまざまな視点から学び直しました。2016年度は、新回勅『ラウダト・シ』をテーマとします。またスタッフがかかわる「カンボジアの友と連帯する会(かんぼれん)」「ジャパ・ベトナム」などのグループが、草の根自立プロジェクトを支援しています。カトリック青年労働者連盟(JOC)死刑廃止運動にかかわるスタッフもいます。

社会センターと小教区とのかかわりも、聖イグナチオ教会広島教区で進んでいます。聖イグナチオ教会においては、スタッフが野宿者や生活上の問題をかかえる人々のための「四ツ谷おにぎり仲間」「カレーの会」「生活相談室」「ほっこりカフェ」「よつ葉ハンズ」などの活動にかかわっています。

「渋谷・野宿者の生存と生活をかちとる自由連合(のじれん)」の地道な活動を息長く支え続ける委員もいます。大阪・釜ヶ崎「旅路の里」は、現在、新たな役割を模索中です。「下関労働教育センター」は、改修工事も終わり、4月にリニューアル・オープンです。

大学とのつながりは、上智大学グローバル・コンサーン研究所(IGC)上智大学神学部などで保たれています。昨年は特に、ローマ本部が出している雑誌“Promotio Iustitiae”116号『イエズス会の大学における正義の促進』特集号を翻訳しました。これを上智大学教職員など、多くの教育関係者に配ることができたのはよかったです。上智大学では、カトリック・センターボランティア・ビューロー、また個々の教員がそれぞれに社会使徒職的な活動や授業を行なっていますが、それらがイエズス会的ヴィジョンから統合されるという点がまだ不足しているようです。それを連携させていくことが今後の課題の一つでしょう。

大学で働く委員には、「なんみんフォーラム(FRJ)」や矯正施設での教誨、日本カトリック中央協議会正義と平和協議会(正平協)の活動に深くかかわっている者もいます。

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今年の8月には、日韓イエズス会社会使徒職の交流が予定されています。共通の問題として、①「移民・外国人労働者・難民」、②「歴史・和解・平和」、③「社会正義と労働」をテーマとする予定です。両管区での人的交流(特に、中間期の場の提供)や、若者の平和教育(チェジュ島聖フランシスコ平和センター、沖縄など)を共同で実施したいとの提案がなされています。

こうした管区間の交流を、さらにベトナムなどにも広げていこうという提案もなされました。とりわけ移民問題は、日韓だけの問題ではないので、アシステンシーレベルも視野に入れてネットワークを広げていく道を考えねばなりません。その際、特に若い人、神学生のかかわりの場をつくることが大切でしょう。

マンパワーの不足から、できることは限られていますが、それでもこう見てくると、日本管区の社会使徒職は、日本社会と教会の必要に、できる限り応えようとしているとは思います。その際、国内・管区内の事案や事情だけに内向きになるのでなく、世界のイエズス会の社会使徒職の一員として前向きにやっていくことが大切だ、との発言に皆が頷きました。管区の人が減るのはピンチですが、それを時のしるしとしてとらえるなら、新しい視点や方法を模索するチャンスともなりましょう。韓国管区との関係においても、どんどん成長する彼らと我らを比較して悲観するのでなく、日本管区が長年培ってきたノウハウをも進んで分かち合っていくことが大切だ…。そのようなことが、熱心に話し合われた今回の拡大委員会でした。

霊性と社会問題

柳田 敏洋 SJ
イエズス会霊性センター「せせらぎ」所長

霊性の理解

ドミニコ会の修道女で神学者のカーラ・ストリーター(Sr. Carla Streeter, O.P.)は、霊性を次のように定義している。「霊性とは現存である。」(“Spirituality is real presence.”)1 そして「私が自分自身に在ること。それ自体が聖なるもの(the Holy)を示している」と述べている。この霊性理解は霊性の世界と現実世界を結びつけるものとしてとても示唆に富んでいる。

社会問題にどのようにコミットするかはキリスト者に問われている課題であり、かつ信仰を持つ者として、社会に神の場からアプローチしようとするなら、霊性の次元を欠かすことができない。その際、霊性を「現存」と理解することは非常に意味がある。霊性を真に生きようとするなら、自分自身と世界、社会に対して現存することなしには霊性はありえないことになり、同時にご自身において既に世界に現存しておられる神に出会う場も、世界のただ中をおいて他にはない。

霊性を生きるとは、決してこの世から退いてただ神への観想の世界にふけるのでもなく、現実世界から逃避することでもない。社会の問題をイエスの伝えた「神の国」という福音の場において信仰の立場から解決を図っていこうとするなら、霊性の次元なしに解決は不可能である。真正の霊性は社会のただ中で神を見出していく道である。それは、たとえ「神の国」について神学的、聖書学的に理解していたとしても、「神の国はあなたがたのただ中にある」(ルカ17:21)とイエスの言った「神の国」に自ら霊性の次元で目覚めていないかぎり、真の解決は図っていけないということである。

アガペといつくしみに目覚める

では、「神の国」に目覚めて生きるとはどのようなことであろうか。それはどの人にも分け隔てなく及んでいる神の無条件の愛、すなわちいつくしみに心の奥底で響いて、エゴを越えて、無私の愛であるアガペを生きる者となることである。そこには、アガペを通して自分自身を存在肯定し、そこから他者へのアガペを生きるというありかたがなければならない。

このようなアガペに目覚めて生きるとは、心の奥底に働く神の霊に目覚めるということである。教皇フランシスコは『いつくしみの特別聖年公布の大勅書』の中で、神のアガペをいつくしみとして表現し、それは抽象的な概念ではなく「実に『はらわたがちぎれるほどの』愛ということです」(6)と述べている。社会問題の解決に正義の観点は欠かせないが、それだけでは律法主義的な見方に捉われてしまいかねない。この点について教皇は、「正義とは神の意思に信頼してゆだねることであると理解されている」(20)と述べ、「救いをもたらすのは律法の遵守ではなく、…死と復活を通して救いをもたらし、わたしたちを義とするいつくしみを与えてくださったイエス・キリストへの信仰です」(20)と述べることで、イエス・キリストの中にいつくしみの本質を見出し、そこから正義を紡ぎだす大切さを訴えている。

この世で苦しみを抱え重荷を負わされている一人ひとりの人、「もっとも小さなもの」にキリストがおられることを認め、そこに既にいつくしみが届いていることを知った上で、現実的な問題の解決、正義の行使を図っていくことが必要となる。

アガペを育むヴィパッサナー瞑想

いつくしみを根源に据えるとは、アガペを根源に据えることであり、それはアガペそのもの(「神は愛である」(Ⅰヨハネ4:16))である神のみ心から社会を見ていくということである。そのアガペとは「存在の無条件の肯定」である。それを各自が心の奥底に育むことが霊性であり、現存していくとは自分の偏ったものの見方や考え方を絶えず越えて、「存在の無条件の肯定」から現実に向き合っていくことである。

このような霊性の開発に、上座部仏教のヴィパッサナー瞑想が有効であると思っている。ヴィパッサナー瞑想は「今、ここをあるがままに気づく」瞑想であり、より具体的には「今、この瞬間の感覚、感情、思考に価値判断を入れることなくあるがままに気づく」ことである。これは座瞑想が基本となるが、日常の活動、仕事のただ中でも用いることができる。

例えば、歩いていて足が机の角にあたって「痛い!」と叫んで、自分と痛みを一つにしてしまうことがある。このような時、この瞑想では意識を切り替えて「足に痛みがある」と気づくようにし、「痛み」を感覚現象としてのみ捉え、「痛み」に善し悪しの価値判断をしない。同じように、相手の一言で怒りが湧いてきたとき、「今、怒りが湧いてきている」と気づいて、怒りと自分を切り離し、「怒り」を価値判断しない。またふと「自分は何をやってもダメだ」と思ったとき、考えに取り込まれないように心を切り替えて、「今、『自分は何をやってもダメだ』と思った」とただ気づくようにする。

こうすることで、その都度、感覚、感情、思考に巻き込まれない自由な自己を生きることができるようになる。また感覚、感情、思考を価値判断することなくあるがままに気づき、その存在を認めることで、意識をアガペに戻し、存在の無条件の肯定であるアガペを育むことになる。さらに、このように離脱した心を持つことで、出来事を最も客観的に見る立場に立ち、アガペの場から識別できるようになる。この気づきは、生理的感覚のレベルから、生活や仕事のただ中で具体的な存在の無条件の肯定という意識に目覚めることを可能とし、活動のただ中で観想的であるという霊性の理想を生きることを可能としてくれるのである。

このような心の態度は、自己中心的なエゴを乗り越える力となる。自分の利害得失を中心に生き、富・地位・支配への所有欲求を持つエゴこそが社会問題の根源であり、これが個人レベルだけでなく、集団レベル、民族レベル、国家レベルで、集団エゴ、民族エゴ、国家エゴとなる時に大きな問題を引き起こすのである。

もちろん今日の社会問題は複雑な諸要素や諸条件が絡み合う中で現れてくるのであり、人間の尊厳に基づく社会学的観点や経済的・政治的観点、歴史的観点、文化人類学的観点、心理的観点などから取り組むことなしにふさわしい解決を生むことはできないが、それらを動員しても、最終的に霊性次元でのエゴの問題が解決されないかぎり社会問題の真の解決はありえない。ということは、個人の霊的回心が欠かせないことになる。

これは簡単な問題ではないが、個人の霊性開発に取り組みながら国家体制の変更に民主的、非暴力的に成功した稀有な例としてミャンマーを紹介し、参考としていただきたい。

ミャンマーの民主化運動を支えた瞑想

ヴィパッサナー瞑想は南伝仏教由来の瞑想法であるが、その中心地の一つがミャンマーである。このミャンマーでは仏教が伝来して以降、ヴィパッサナー瞑想が行われてきた。

ウー・ウィンティン Wilipediaより

昨年秋、ミャンマーの総選挙でアウンサン・スーチー氏の率いる国民民主連盟が高い得票率を得て、長年軍事政権下にあったミャンマーの政治体制が、この春から民主主義的な政権に変わる。

アウンサン・スーチー氏は長い間、民主化運動の闘士として非暴力主義を貫き、ミャンマーのために働いてきた人である。実はスーチー氏の側近の多くがヴィパッサナー瞑想を体験している。側近の一人であるウー・ウィンティンは、何度も投獄されて拷問を受けた人である。逮捕され、眠らされず、頭に麻袋をかぶせられて殴り続けられるという苦しみの中で、民主化運動から手を引くように迫られたとき、ウー・ウィンティンはそれを拒否して「お前のためだ。自由というのはお前のことでもあるんだよ」と叫んで民主化運動に固く留まり続けた。2

彼は憎しみや怒りに支配されそうになる心を離脱させるすべを、瞑想を通して学んでいたのである。彼は看守にいつくしみさえ感じるようになり、「自由はそれを失う恐れよりもずっと深いところにある」ことを学んだと語っている。相手に対する怒りや憎しみから心を自由にしてこそ、私たちは本当の平和を紡ぎだせる。ミャンマーの民主化運動は長期にわたったが、非暴力主義に忍耐強く取り組み、現実のものとしていった素晴らしい例といえる。

社会問題の根源的解決のために、エゴを突破する霊性がなくてはならず、それを可能とするものの一つとして、意識の根源からアガペを育むヴィパッサナー瞑想に、キリスト者の立場から今後一層着目していきたい。


  1. Carla Mae Streeter, OP, “Foundations of Spirituality: The Human and the Holy; A Systematic Approach” (Liturgical Press, 2012) ↩︎
  2. アラン・クレメンツ『ダルマ・ライフ-日々の生活に“自由”を見つける方法』(春秋社、2009) ↩︎

福島原発事故避難者の住まいを奪わないで

信木 美穂
きらきら星ネット事務局

避難者を支える市民グループ 〈きらきら星ネット〉

私が活動する〈きらきら星ネット〉は、東京電力福島第一原子力発電所事故により奪われた避難家族の日常生活を取り戻すため、彼らを少しでもサポートしたいと集まった有志によって作られた小さな市民グループです。2011年9月の設立当初から、福島原発事故の避難区域内外からの避難家族(特に母子避難の親子など)、津波や地震の被災者・避難者のみなさんとかかわりを続けています。

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定期的な活動としては、小中高校生の勉強の自習の見守りを行う学習支援(勉強ひろば)、家族で参加できる交流さろん、避難者も福島在住者も参加できる保養プログラム(放射能による内部被ばくやさまざまなストレスなどからの健康回復・リハビリテーションのため)、遠足やチャリティイベントなどです。また、現在は山形県の米沢市と山形市(カトリック山形教会)の二カ所で、2~3カ月に一度の交流さろん・相談会を開催し、現地の避難家族との交流やつながりづくりを続けています。私たちの活動には、さまざまな小教区のカトリック信者が参加し、それぞれがこの活動と自分の教会での働きを結びつける役割も担っています。

住まいを失ったら難民かホームレスになるの?

私たちが日常的にかかわっている避難家族は、その多くが原発事故による避難区域に指定されていない「避難区域外」からの避難者です。今、その避難者の多くが、「自分は来年の今頃、外国の難民のようにあちこちをさまようことになるんじゃないか」「住まいを失って一家でホームレス状態になるのではないか」ということに怯えて過ごしています。そのことを、みなさんはご存知でしょうか。

原発事故の避難区域外からの避難者は、避難区域内避難者とは異なり、国や東京電力からの賠償もほとんど受けられません。ただ、国と福島県からの支援策のひとつとして、「避難住宅の無償提供」があります。原発事故発生後、避難区域からの避難者のみならず、福島県のあちこちの避難区域外から、多くの人が放射能の被害を避けるために全国に避難したため、国と福島県は、その避難者たちに住まいを提供しました。

福島県内や被災県である岩手県や宮城県などに避難した人たちの多くは、建設型仮設住宅を提供されてそこに入居していますが、被災していない都道府県に避難した場合は、さまざまな公営住宅や民間の住宅が「応急みなし仮設住宅」として、避難者に無償提供されています。ただし、区域外からの避難者については、この避難住宅の「提供期間」が細切れに延長されてきました。

「福島原発事故は収束した」「放射能の問題はほとんどない」「一部の避難区域以外は安全だ」と主張したい政府にとっては、避難区域外からの避難者を、なるべく早く福島県へ帰還させたかったのでしょう。避難者を帰還させ、その実数を減らすことは、原発事故の被害をできるだけ小さく見せ、事故の影響がほとんどないと示したい態度の現れであり、原発事故に関する収束宣言を、より具体化するひとつの手段だったのではないかと思われます。

区域外避難者たちはそういう国の帰還推進政策に翻弄されてきたのです。彼らは、おおよそ2年ごとに住宅提供期限を区切られ、その期限が迫ってくるたびに、国会議員や政府へのロビイングや署名活動などの当事者運動を展開して、住宅提供の延長を何度も求めて、ようやく「住まい」としての避難住宅を勝ち取ってきたという経緯があります。それも、数年先までの期限付きの提供をとりあえず約束されるだけで、安心してずっと暮らせると保障されているものではありませんでした。

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昨年の2015年6月、福島県は区域外からの避難者が暮らす「応急みなし仮設住宅」の無償提供を、2017年3月末で打ち切ることを決定しました。これにより、来年の2017年4月以降、福島県から全国に避難している区域外避難者のみなさんは、「避難住宅」としての「住まい」を失うことになりました。

住まいがなくなったらどうなるの?

区域外避難者には、母子で避難しているために、夫や家族と離ればなれになりながら二重生活を続けている人、その二重生活のために出費がかさみ、貯蓄を切り崩して生活している人、家族で避難していても以前と同じような収入が得られる仕事にはつくことができない人、避難生活がきっかけとなって離婚や別居など家族関係が変化して、経済的に困窮している人なども多く、いまだに日常生活を完全に取り戻せているとはいえません。避難者たちは、避難生活を余儀なくされているがためのさまざまな困難を抱えています。その上、避難のために無償で提供されている「住まい」を奪われるとなると、住まいを自分で確保しなければならなくなります。すると、家賃を払わなければならない、あるいは、住宅を購入しなければならないといった大きな経済的な負担がのしかかり、避難生活を続けられなくなります。無償提供の打ち切りは、避難者の生活を根底から揺るがし、暮らしの破綻に直結します。

また、来年の春以降の生活の見通しが立たないことで、避難家族の子どもたちの学校や進学などの教育問題にも深刻な影響が現れます。子どもたちにとっても、自分がどこに住むことになるのかという見通しが立たない、どこの学校に行くことになるのかわからない、という不安と現実を抱えることは、将来につながる大きな問題です。

ある避難者は、「今まではホームレスや難民のことは、自分からは遠くかけ離れたものだと思っていたが、住まいを失うという現実を考えると同じ境遇だ」と話しています。また、「公園でテント暮らしをすることになっても良いから、ここに住めるという保障のある場所で避難生活を続けたいと思ってしまう」「ホームレスの人が小さな小屋に住んでいるのを見ると、自分の家があって羨ましいと思うほどだ」という人もいます。避難者はそれほど追いつめられているのです。子どもたちも「東京の中学に行けるの?」「福島に戻らなくてはいけないの?」「家がなくなるの?住めなくなるの?」と親たちに不安を訴えるケースが多いと聞きます。原発事故による避難者は、安心して暮らしていた故郷を追われ、住まいや暮らしを奪われただけでなく、精神的にも追いつめられているのです。

避難者を放浪させない、その小さき声を聞いてください

今回の大震災と原発事故は未曾有の災害であり、福島原発事故はチェルノブイリ以上の過酷事故とも言われていますが、それに伴い、避難者の避難生活も過酷で長期にわたっています。日本では、原発事故被害者・避難者への対応はこれまで想定されておらず、特に区域外からの避難者については、その場しのぎの対応が何年も続いているように思われてなりません。

そもそも原発事故による避難者は、事故の被害者です。事故による放射能の被害や危険から、その生命と暮らしを守るために避難しているのです。来年になされようとしている区域外避難者の避難住宅の無償提供打ち切りは、その被害者である避難者を「避難先にもいられず、放射能の被害や危険が残る福島にも帰れない」という、行き場なく放浪する難民状態に追いつめ、「住まい」という生活の基盤を失うホームレス状態に追いやることそのものです。原発事故により深く傷つき、翻弄されている避難者たちが常に不安と苦難に直面し続け、さらに放浪への恐怖を抱いているという現実を、私たちは知り、彼らが安心して暮らせる社会を作らなければなりません。私たちは、こんな小さな国に暮らしているのです。隣にいる人の小さき声は、私たちが耳をすますことさえすれば、しっかりと聞くことができるのではないでしょうか。

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